ナ イ ン の 会

クリスチャン自死遺族のコミュニティ
    
「泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある」
伝道者3章4節

2014年発足 

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開催レポート

          
メッセージ要約

ヨハネの福音書9章1~7節
「神のわざがあらわれるため」
自死は他の死と比べると差別されやすい死です。もともとある生まれつきの考え、古い考えに基づいて人は判断するのです。それは世の中の常識とも言います。それが時に、私たちを縛り上げるように支配します。その中で一度自死が起こると因果応報などと言われ、自死遺族はさらに苦しみます。そのような心無い言葉で苦しみ、傷が広がるのです。
聖書の世界も同じような事があります。ヨハネ9章1~7節です。主イエス様の時代も似たような考えに縛られていました。ですから人々は「彼が罪を犯したからか、両親か」と原因と結果を冷ややかに分析し、言い表します。当事者である目の見えない人にとっては、それは苦しみを拡げ、恐怖さえも抱く言葉です。そこには何も解決がない。もはや人にとって大事な愛も失われます。しかし、イエス様だけは全く違う見方をします。その古い生まれつきの考えに、しっかりと向き合います。そして全く違う考えで「神のわざが現れる」と示し人々を解き放つのです。実はその前の8章でも、罪あるところに罰をと要求する人々とイエス様は向き合います。訴える人々は世の常識も上手く取り込み、自己を正当化して、その苦しみ打ちのめされた人をも責め、さらに主をも責め立てます。そこでイエス様は新しい見方、考えを示すのです。その人を罪に定めず、責めや恥から自由にし、回復させたのです。それに続いて、この9章でも古い考えに縛られる人々へ一石を投じています。新しい考えを示し、人々を解き放ち当事者も新しくします。さらに、この9章3節の「神のわざ」とは原語上「行い、働き、務め」とあり複数形となっています。つまり数々のわざであり、これからも数々のわざがなされると読めます。なぜなら、この先の14章12節でも主にある人々もそのわざに参加するよう促されているからです。それは自死遺族の私たちも同じです。ところで私の場合は母が自死し、その痛みを覚えています。できれば自死は避けて欲しい、生き続けて欲しかったと願います。しかし聖書が教えるまことの神様はフォローする方です。その自死日に後で娘が生まれ、さらに今年同じ日にバプテスマを受けました。私は様々な事柄から祈り考え、自死をとらえ直しました。自死にも価値がないか、意味があるのではないかと直したのです。もちろん自死は決して好ましいものではありません。でも生まれつきの古い考え、世の常識から自由になり、とらえ直して今では他の遺族を新しい家族だと考えています。ナインの会も不思議な導きによって立ち上がり、そして母の自死にも意味があったと信じ「お母さん有難う」と言い表しています。それも神のわざの一つだと言えます。
このナインの会も神のわざです。そして、そこに集う私たちも持ち場、立場は異なりますが、それぞれ神のわざを表していきましょう。焦らず一つひとつ、無理なく主と共にこの世に示していきましょう。
          

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