ナインの会@名古屋(2017年7月29日)
7月29日(土) 名古屋市金山キリスト教会で、愛知県では4回目になる「ナインの会@名古屋」が開催されました。
参加者は11人。1年ぶりに再会する遺族との、哀しくも温かい交わりを持つことができました。
午前11時から全体で自己紹介をし、まず2時間の分かち合い。昼食の後に、礼拝しました。
快適な会堂を快くお貸しくださった金山キリスト教会の皆様に感謝しました。
「イエスはこれを聞いて、言われた。
『この病気は死で終わるだけのものではなく、 神の栄光のためのものです。 神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」 ヨハネ11章4節 ナインの会が立ち上がって3年経ちました。 当初、名前もなかった会がここまで続けられたのも、私たちの痛みを理解し共有して下さる主が支えて下さったからです。それはまるで種が芽吹くように大阪や東京へと広がりました。その会を行う中で、言いようのない悲嘆に沈みつつも、それでも主を仰ぎたいという筋金入りの信仰を見出します。さらに参加者お一人びとりが引き上げられ、賜物も用いてご奉仕下さり、ここまで進んで来ました。 そこで改めて主を仰ぎます。その主は上記の御言葉で慰めと希望を得させて下さいます。ここでは病など私たちが避けたいと思う試練や、さらに様々な関係性に隔てとなる死に直面する際も主イエスにあっては神の栄光に、素晴らしいみわざに変わるという約束を意味します。そこにナインの会も希望を見出せると信じます。 実際、私自身も分かち合いの度に母の自死を思い出し、とても苦しくなります。それは当事者しか理解できない悲しみ、痛みです。でも、それで終わりではありません。会の中でご遺族との出会いや交わり、礼拝で見出したものから特別な慰めを得ます。 私自身は、同じ痛みを抱く人々が集い、共に主を仰ぐ中、亡き母の代わりに得た新しい家族だと捉え直して、過酷な経験に特別な意味付けをしています。その思いで歩み続け、ナインの会に関わっています。そして開催する度に会が成長していく兆しも感じています。心より憐みの主に感謝致します。 今回は3年前にナインの会が産声をあげた場所に戻って行われました。賛美と祈りの深い場所である礼拝所で我々の仲間である牧師をお迎えして聖書から「失望に終わらない希望」と題して語って下さいました。その中で、あの大きな出来事(自死)があったのだから、普段の問題では揺らぐ事はないとお聞きして、自死にも新たな意味があると私は確信しました。 さらに牧師は1節、1節を丁寧に教えて下さいました。その中で慰めの主と私たちが確かにつながっていると信じる事ができました。また急遽、ある姉妹の二種類のオカリナ特別賛美もあり、とても嬉しく思いました。痛みつつも自主的に賜物を用いてささげられるものは尊い愛の表れです。 自死の痛みの分かち合いも参加者全員が、それぞれの思いや考えを言い表せました。それは考えや意見の多少の違いがあっても受容し合う事ができます。それも主イエス様が共にいて下さる証しです。分かち合い後に持ち寄ったお弁当を皆で頂きながら様々なお話しもお聞きする事ができ、あっという間に解散時間になりました。 愛知県に限らず毎回、会場を後にするのが名残惜しいように感じます。また参加したい思いがあっても都合によりお休みした方もいます。その方はどうしているだろうかと案じて心苦しく、寂しさも感じます。次回はお会いして皆で憐みの主を中心に据えて語り合えるように、さらに新しい参加者が一人でも多く、痛みの中から主を仰いで希望と慰めを得られますようにと願い、お祈り致します。 **特記 今回、別に行われた世話人会で広報のために機関誌などを発行するアイデアも与えられました。海外の遺族会の話題も話し合われました。それも発展へと進んでいる証しです。 ささやかな集いですが、確かに成長へと向かっています。これからも私たちの抱く痛みに主が応えて下さると信じています。もちろん運営の課題が幾つかあり、どのように取り組んでいくか、まだ分かりませんが、切なる願いに応えて下さる憐みの主と共に進んでいきましょう。(大浜) |
礼拝式
1、黙とう
2、讃美 讃美歌312番
3、聖書朗読 ローマ人への手紙5章1~5節
4、祈り
5、メッセージ 「失望に終わらない希望」 説教者
6、祈り
7、讃美 讃美歌280番
8、献金 祈り
9、頌栄 頌栄541番
10、祝祷 説教者
「失望に終わらない希望」≪メッセージから≫
1.苦しみの意味を知らされる恵み
・ローマ 5 章で使徒パウロは、イエスによって神との平和、シャロームの関係に入り、
神を喜ぶようになったキリスト者は、患難さえも喜ぶと言う。
なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出 し、
練られた品性が希望を生み出すことを知っているから。
・確かに主権者であるお方と和解していない者にとって、苦しみは
単なる苦じみであり、 厄介なものであり、即刻解決すべきものにしか過ぎない。
しかし、キリスト者は、苦しみを主権者である神との閣係の中で、
神の約束の中で受け 止めることができる特権が与えられている。
時に苦しみの意味を知らされる、悟らされ る恵みがある。
神がいるからしっかり悩める。その時、私たちの魂は、ある方向に導かれる。
そう希望へと。主のこの苦しみを意味あるものとしてくださる。
2. 神の愛が私たちの心に注がれる恵み
・そして、苦しみを通して、生み出された希望は、失望に終わらない。
直訳は恥を かかせられない。なぜか。神の愛が信じる者、
苦難を受けている者に注がれているからだ。
・ この神様の愛の注ぎを別な言い方で言うなら、 8:31 にあるように
神は私たちの味方である。また、決して私たちを捨てない。
・私たちは今この瞬間、この神の愛に支えられながら、うめき、悩み、
叫び、互いに分かち合うことが許されている。忍耐を持って待つことができる。
下には永遠の腕あり。
・さらに、神の国が完成される時、私たちの恥は完全に取り去られる。
私たちを責める全てのものは消え去る。そして私たちの身体は贖われる。
ここに希望がある。
・みなさん一人一人を神は失望させない。私たちが自分で自分を見捨てようと
するときで すら、神は見捨てない。
・そして、ローマ 8 : 3 7 にあるように私たちは圧倒的な勝利者となる。
結 主に希望を告白しよう
・私たちはなお、この地上の歩みの中で、失望させられるような現実を味わう
かもしれない。 しかし、なお主は私たちを愛しておられる。宝のように大切に
扱われる。そのことを信じていただきたい。
・私たちを愛してくださる主に希望を告白し続けよう。
☆毎回、少しづつ神様への思いが深められ、とても豊かになっていることを感じます。今後も私なりに関わらせていただきたいと思います。
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